ただの批評家になるな

人は、自らの経験・体験をもとに未来への選択をする傾向があるのだそう。

 

情報にどっぷりつかっていると

当たり前のように未体験の情報や未常識の情報といった、自分の脳の認識の領域外のことに触れることも多い。

年を取るということは、自分の中の判断材料が増えていくことでもあり、より賢明なより効率的な選択をできるようになる…かと考えることもできるけれど、どうもリスク回避、不安定要素の排除がうまくなるだけのような気もする。

 

 

 

例えば

「危機管理は大切」

という言葉は知っているし、それが正しいこととされていることも知っている。

 

 

ではその”危機”が何かをこたえられるのだろうか?

そしてその答えはみんな同じじゃないといけないのだろうか?

 

通らなければいけないと”言われている”道は本当にそうなのだろうか?

 

 

 

 

自分を持つということは、自分の認識の領域を守るために認識外のことを批評、嘲笑、傍観することではない。そういった他を批評することで自分を正当化するというつまらない哲学はただの相対的なアプローチにすぎず、ただの錯覚ともいえる。

 

氷山の一角でしかない目にした1部分の情報の背景にどれほどの思考、行動、動機、出会い、チャレンジ、失敗、、、すべてを読み取ったり理解することは到底無理な話だけれど、ただ一言言えるとすれば、氷山の一角(見える範囲のみの情報)に対する反応というその錯覚は「ただの批評」といった外野情報でしかなく、ノイズだと思う。

 

様々な前提条件や価値観がかわる中、他人に目の前に人参をぶら下げられるのではなく、自分ではるか先にお肉を見出し、進まなければ、いつまでも迷い、漂流し、いつしか自分も”ただの批評家”また”ただの傍観者”になってしまうんじゃないか。なんてね。

 

ボクにとってみれば

 

ただの傍観者  ≒  ただの批評家

 

であり”ただの情報”に過ぎない。

 

 

 

なら、そのはるか向こうにある”お肉”を目指したい。

 

 

 

 

その際、嘲笑は恐らく避けられない。

 

肴のあてになることもあるかもしれない。

 

つるし上げられ、袋叩きにされることもあるかもしれない。

 

ネガティブかな?笑

 

 

でも、それはまったくもって価値のない、ただの不安情報であり、戦う相手ではない。

ってことを知ってるから大丈夫だけど。

 

 

自分の掲げた”お肉”が遠ければ遠いほど、未知の領域に進むことは多いだろうけど

それを楽しもう。

 

 

 

恐怖と成長は表裏一体。

 

一番怖いところに飛び込もう。

 

 

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